伊藤家の紹介

伊藤宗看(初代)1618-1694

三世名人。

出雲の生まれ。詳細は不明で、どのような家の出か、幼名は何と言ったか、入門の経緯は、など一切伝わっていない。 しかしかなり年少の内に京に上って宗桂、宗古の門下となったことは間違いなく、 弱冠18歳にして一家を興したあたり尋常の才ではない。

宗看の業績として最も称えられるべきは、在野の強豪たち(松本紹尊、萩野真甫、檜垣是安ら)と実に数多くの対局を行い、 様々な戦形、新趣向を試みてそれまで草創期にあった将棋界に技術的進歩をもたらしたことである。 宗看以前の棋譜と、宗看の感化を受けた子五代宗桂や、養子二代宗印の棋譜を比較すればその洗練度に格段の差が見られる。 なお、これら在野棋士との対戦を「是安吐血の一戦」など争い将棋として紹介している文をよく目にするが、 いずれも後世に付会された噂話にすぎない。

他にも詰将棋より手余り(詰上りでの持駒余り)を廃したこと、 大橋本家が四代宗伝の早世によって断絶の危機に見まわれた際、自家が絶える可能性を省みず実子宗銀を養子に出した美談や、 江戸期の名人でただ一人存命中に将棋所を譲ったことなど、宗看について語るべきことは多い。


伊藤宗印(二代)生年不詳-1723

五世名人、前名鶴田幻庵。

肥前の国唐津の出で、元禄3年(1690)伊藤家の跡目となる。 生年不詳だが、その子らの出生年から相続時20歳位と推定され、養父宗看に劣らぬ早熟の天才であった。 本人の実力はもとより、指導者としての才も素晴らしく、5人の息子をいずれも高段者 (上より印達:五段早世。三代宗看:七世名人。八代宗桂:八段。看恕:七段。看寿:八段・贈名人) に育て上げたことは特筆されて良いだろう。

宗印は詰将棋の創作も堪能で、 献上図式の通称『将棋勇略』ほか不成百番として知られる『将棋精妙』の二図式集計二百番を著している。 江戸期の名人でこれだけの作品を残したのは宗印のみ(但し『勇略』は添田宗太夫七段代作説あり)である。


伊藤印達 1698-1713

五段、二代宗印の長男。

六代大橋宗銀と4番手直り57番指しを戦った。 家元同士の争いも無く、平和裏に推移してきた将棋界で、確認できる唯一の「争い将棋」と言えるこの勝負が戦われたのは、 一つには将来の名人候補である二人に実力で決着を付けさせようとする両者の父、五代宗桂と二代宗印の意図があったものと思われる。 また、俗説ではあるが宗桂、宗印は不仲であり、そのため両家の威信を賭けた代理戦争的に行なわれたとの伝もある。 結果、中・終番の力で勝る印達は宗銀を角落ちにまで指し込んでこの勝負は終わる。 しかし精神的、肉体的疲労の蓄積からか印達は間もなく15歳で早世。宗銀も1年後後を追う。 若き2人の命を散らせたこの57番指しは、将棋史の悲劇として語り継がれている。


伊藤宗看(三代)1706-1761

七世名人、二代宗印の次男

兄印達が早世したため、家督を継いだときまだ10代であったが棋力はすでに卓越しており、 三代宗与の没後弱冠23歳で将棋所に襲位した。その実力は「鬼宗看」とも呼ばれ、 江戸期の歴代名人の中でも1、2位を争うとされる。 また、詰将棋においては革命的な天才であり、 献上図式通称『将棋無双』はあまりの難解さから『詰むや詰まざるや』として長く将棋界の謎となり、 弟看寿の『将棋図巧』とともに図式集の最高峰に位置されている。 それまで「終盤の練習問題」、「面白いパズル」であった詰将棋をこの兄弟が一気に「芸術」レベルにまで高めたことは、 一つの奇跡と言っても過言ではない。

若くして頂点に昇った宗看は精力的に活動を行う。 従来、囲碁家を上位とし将棋家を下風と見る慣習に対して、愛棋家の旗本を通じて起こした「囲碁、将棋家席次争い」は代表的なもの。 これはかの大岡越前守の裁定で、本因坊第一席、以下は相続順。として解決した。 さらに大橋本家の七代宗桂に弟宗寿を養子として送る。 これは当主の技量が未熟だったからとされ(請われてか推薦かは不明)七代宗桂はすぐに隠居し、宗寿は八代宗桂として家督を継いだ。 この結果、御城将棋を勤められるのは、分家の大橋宗与一人を除けば宗看の兄弟ばかりとなり、伊藤家の将棋界制覇がほぼ完成した。 宗看は弟看寿を跡目とした。おそらく祖父初代宗看のように存命中に将棋所を致仕して、看寿に継がせる意図であったと思われる。 将来的には、指し盛りを過ぎた名人は引退し、 最も力のあるものが引き継ぐ形の「実力名人制」を視野に入れていたのではないだろうか。

しかし看寿が宗看に先んじて世を去ったため、これは実現しなかった。 ともあれ三代宗看は将棋界、伊藤家、詰将棋の三つに、かつて無い黄金時代をもたらした将棋史上に永遠に残る巨人である。


伊藤看恕 1716-1760

七段、前名助左衛門、二代宗印の四男。

伊藤家の天才兄弟達の中で、相応の棋力を示しながら何故か御城将棋に一度も出仕せず、 詳細の伝わらない謎の人。身体に何か障害があったためではないかと推測されているが定かではない。 部屋住みのまま45歳で世を去っている。


伊藤看寿(初代)1718-1759

八段、贈名人、二代宗印の五男。

いずれも高段に上った三代宗看の弟たちの中で、ひときわ才を示したのが末子の看寿であった。 御城将棋で4才上の兄八代宗桂を破って先に八段昇段を果たし、図式献上もおえ次期名人は確約されていた。 しかし42歳と若くしてその生涯を終えることになる。1年後宗看が看寿を追う様に没したのは、 この英才を失った心痛によるためとも伝えられる。

看寿の献上図式である将棋百番奇巧図式、通称『将棋図巧』は宗看の『将棋無双』と並んで図式集の最高峰とされ、 代表的な「煙詰」、六百十一手の「寿」などは遠く昭和に至るまで、何人も創作不可能であったほど高度な水準の作品である。


伊藤宗印(五代)1728-1793

七段、前名鳥飼忠七、喜多とも。

伊藤家四代得寿が28歳で早世したため急遽家督を継いだ。 経歴がよく分からない人で、おそらく相続も予定外のことだったのだろう。 御城将棋の成績も悪く正直影の薄い存在であるが、 将軍家治という外護者を得て、黄金時代から一転して人材不足に陥った伊藤家を良く守った。 家治が将棋好きになった一因に宗印の努力があったとしたら、その功績は決して無視されるべきではない。


伊藤看寿(二代)1748-没年不詳

五段、贈名人初代看寿の子、後寿三。

この人もほとんど事跡が伝わっていない。父の才を受け継ぐこともなく、棋級は五段に留まっている。 後年改名したのは、看寿の大名跡に耐えられなかったことの自責からかもしれない。 しかしその血筋は受け継がれ、彼の子は伊藤家の養子に入り七代宗寿となる。


伊藤宗看(六代)1768-1847

十世名人、前名松田印嘉。

江戸時代最後の名人。「荒指しの宗看」とも呼ばれ、攻めっ気の強い名人とされているが、 私見では伊藤家の棋風はだいたいこんな感じかとも思う。先の名人六代宗英からの近代将棋への流れを受け継ぎ、 様々な新手を試みた。また、二代伊藤宗印のように、3人の男子(看理、看佐、金五郎)をいずれも高段者に育てたが、 皆身持ち良くなく宗看の後を継ぐ事はなかった。そういう意味では不運の人でもある。


伊藤看理 1793?-1824?

六段、十世名人六代伊藤宗看の長男。

大橋宗英の絶局の相手を務めた事で知られる。 六段まで昇ったが青年時(一説に31歳)に世を去っている。 共に早世した弟看佐と同様に、明確な死因(病死等)等が伝えられていない事には疑問が持たれる。


伊藤看佐 生年不詳-1827?

七段、十世名人六代伊藤宗看の次男、前名定次郎、定四郎とも。

若くして七段と高段に昇り大いに頭角を現したが、30才を前に早世している。 充分に名人候補としての資格を持つ彼の死は、周囲に惜しまれる限りのものであったはずなのに、 何故かその死因が伝えられていないのは謎である。誇張された表現が多く見られ、 一概に資料として信用できる文書ではないのだが『将棋営中日記』によると、博打で多額の負債を作った結果、 自ら首をくくったと記されている。


伊藤金五郎 生年不詳-1843

六段、十世名人六代伊藤宗看の三男。

六代宗看には3人の男子があり、看理(六段)・看佐(七段)・金五郎はいずれも将棋の才を持っていたが、 伝わるところによるといずれも身持ち良くなく、看理・看佐は若死に(自殺説あり)、金五郎は本文の通り放蕩にて勘当と散々で、 結局宗看の跡は二代看寿の子宗寿が継ぐことになる。


伊藤宗寿(七代)1784-1846

七段、二代看寿の子。

六代宗看の子らの早世、勘当を受けて伊藤家の養子となった。 幕末に入り2度目の名人空位時代を迎え、斜陽に向う将棋界の中伊藤家を支えた。


伊藤宗印(八代)1826-1885

十一世名人、前名上野房次郎。

家元最後の名人として、明治維新以後の棋界再建に尽力した。 将棋雑誌発行を試みるなど、一般への幅広い普及を視野に入れた先見の明を持っていた人である。 しかし将棋の芸道としての格の高さを重んじ、上流社会での普及を図ろうとした後の十二世名人小野五平とは不仲であった。 これは伊藤家の名跡を継ぐ宗印と、大橋本家門の五平との対立という構図であったのかも知れない。 結果棋界は分裂し、専門棋士で生計を立てることが困難な時代が長く続くことになる。


伊藤印嘉 1847-1862

初段、八代宗印の長男。

文久元年(1863)の最後の御城将棋を父と共に務めたが、翌年15歳で早世した。


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