これからご紹介するのは大正時代の将棋月刊誌『将棋新報』である。 将棋博物館所蔵のその合本の中に大正10年版、 小野十二世名人が逝去し関根新名人が推挙される間の経緯を伝えた記事が掲載されている一冊がある。 近代将棋史の中の大きなポイントであり、 また当時の棋界関係者と愛棋家にとっては大事件でもあった名人交代の実情を、 当時の将棋雑誌を通じて垣間見ることにしよう。
本文中、日付など一部漢数字は読みやすいように算用数字に直し、 句読点をふりなおした。また、読みにくい・意味のとりにくい語には振り仮名・注をつけた。
『将棋新報』第13巻第3号本誌1月号に於て本年の棋界は名人候補の問題が提出されるべき事を予報した。 それは小野翁が老体にして、且つ病み棋道の指導に任ゆる能(あた)はざるに到ったのみならず、 昨年10月91歳の寿会を開き老後の花をも飾ったのであるから、最早や名人を隠退して 後進に譲るべき機会に到達したものと思ったからである。 その後翁の病気は退きもせず進みもせず、幸ひに1月下旬まで褥上(じょくじょう:布団の上こと)に起臥して 或ひは全快すべきかの望みもあったとの事だが、何分90歳を越した老体とて、 29日の午後にわかに簀を易ふる(えきをかふる:病床を取り替える意から人の死を指す)に至って、 2月2日に市外堀の内街道なる松應寺に埋葬したのは誠に急劇の事であった。
翁は阿波国脇町の旅館の長男に生れ始め土井喜太郎と呼び青年の比より将棋の天才があったが、 土地に師匠もなく又其技量を試むべき棋友も無く自分も其手腕の程度を知ることを得なかったが、 其16歳の時に疥癬(かいせん:疥癬虫の寄生によっておこる伝染性皮膚病)を患ひ、 摂州有馬の温泉に浴療すべく一人海を渡って有馬に到り其處に留まること一月余りであった。 他の浴客中にも将棋を好むものがあったので之と戦ふに連戦連勝の勢いで多いに評判が高まった。
時に其處へ遊歴し来った長崎の棋客某と云ふものがあった 凡(およ)そ三段位の手腕を持って居たが喜太郎は其人とも香車を落とされたのでは負けの少なかった程であったから、 学ばずして既に初段くらいの力であった事と察せられる。斯(ここに)して疥癬も平癒したので日ならず帰郷しやうと云う考えへであった。 處が長崎の棋客は、喜太郎に勧めて「貴公は将棋の天才がある。 少しく学べば高段に至ることも出来る。我と友に遊歴しつつ長崎に下らんか。」と云ったので、 喜太郎も心が動き、且(か)つは好める道であるから、 終に其棋客に伴われて郷里へは無断で遊歴の途に上り、 沿道で技術を研きつつ長崎に下って暫(しば)らく其棋客の家に留まって居た。 途中の遊歴中と長崎の滞在に数年を費やし、既に壮年に至った喜太郎は手腕著しく上達して、 其棋客は勿論九州では師とすべきものも無きに至ったので、 此上は京都に名高き天野宗歩の門に入らんとの望みを起こし、 長崎の棋客に其事を語った處が大に賛成の意を表されたので、 又又途中遊歴しつつ終に京都に至って天野は既に江戸に出たれば、 喜太郎はそれより東西南北に歴游して、茲(ここ)に江戸に出て天野の門に入った時は四段であったが、 天野とは只一回の手合せあったばかりであったとの事だ。 以上は小野翁が曾(かつ)て本誌の記者に物語った直話である。
当時江戸には大橋両家と伊藤家が鼎立(ていりつ:三者が並び立つこと)して居たが、 軈(やが)て明治維新と改まって将棋の家元も扶持に離れ、 棋道は一時衰退に及んだので翁も微々として暮して居たが、 元来が才気のあった翁であるから、此際に乗じて一旗挙げんとの考へであって、 当時東京の棋客と事毎に反対の行動を取ったので、頗(すこぶ)る同志の間に憎まれて次第に孤立の有様となったが、 負けず嫌ひの翁であるから之に屈せず、 其比の名人伊藤宗印等を攻撃して棋道の弊風(へいふう:悪い風習)を鳴(なら)すこと度々であったから、 大橋の家元とも相ひ容れざるに至って、卑劣漢なり野心家なりと非難を受くることも少なからずであった。
翁は少年の比(ころ)に無断で家出したものであるから勘当同然の身で土井喜太郎と名乗って居たが、 東京に於て一家を為すに及んでから、家名の小野五平を襲(つ)ぐに至ったのであるが、 其比(そのころ)翁の顧客中で新川の酒問屋鹿島清左衛門と旧松阪藩主藤堂氏との取り為しで、 其時の名人伊藤宗印と手合わせする事になった。 駒割は宗印が左香を落し第一日は藤堂邸で対局し、第二第三は鹿島家で対局し終ひに翁の勝利に帰した。 之が翁の出世手合とも云えるべきもので翁は常に之を誇りとして語って居た。
既にして両大橋家元の中で本家の宗金は実力劣りて棋道を立て行くの勢い無く、 分家の大橋宗与は或る事件で入獄したので懲役より帰って後には世に出られず、 暫(しば)らくして伊藤家の宗印も亦(また)病歿したので家元三家とも断絶同様となり、 将棋の天下は所沢の大矢東吉と小野翁の二人に帰するに至ったが、 小野翁は当時大矢に一歩を譲るの感があって実戦にも負け越しとなった為に、 当時の番付には大矢が東の大関で小野は西の大関に著されて居たのであった。 之がために尚(な)ほ頭を大矢に押さへられる形であったから、 此大矢が健在したら小野翁の名人となるには障害であったのだが、 大矢は中途で頭脳に異常を生じ、終(つ)ひには精神に變體(へんたい)を起して死去したから、 之が却(かえっ)て小野翁の幸ひとなって、明治33年を以て小野翁が名人を名乗るの段に至ったのである。
翁が名人となって後は東京に高段棋士の門戸を張るもの少なく、 小菅剱之助、石川友次郎、関根金次郎、小林鹿次郎など何れも手腕を擁しながらも、 常に放浪生活を続けて居たので或ひは地方に漂浪し或ひは上流に信用なく、 到底小野翁に対抗するの勢ひ無く、独り小松三香のみ東京に門戸を張って居たが、 手腕に於て翁と覇を争ふ能(あた)はずして、終(つ)ひに小野翁の天下となったのである。
翁は能(よ)く云へば意思強く、才気に富んだ處からして次第に上流に用ひられて、 紳氏紳商(しんししんしょう:人格のりっぱな人や商人)の将棋を好むものは皆翁の門を叩くに至ったのであったが、 一面から露骨に云ふ時は偏狭で強情であったから毀誉半ばして門人として深く翁に師事したる棋客なく、 素人の外は単に免状を得たる門人と云ふに過ぎず、 現在の棋士中で坂田八段以下同盟社の五段中で門人と称するものも多くは免状を受けたと云ふに留まり、 実際の教授を受けたものは殆んど少しと云ふべく、 坂田氏の如きは1回も翁と盤に対した事がなく、 数年前に八段となるにつき始めて免状を受けて門人と称するに至ったに過ぎぬのである。 是を以って晩年は甚だ寂寞の感があって病革(やまいあらた:病気が重くなる)まるに及んで、 免状を受けた門人が数名出入したに過ぎぬ。且(か)つ翁は十餘年前に唯一人の嗣子に先たれ、 細君も亦(また)昨年病歿したから、翁は全く孤独の中に長逝したのであった。 之れ翁の偏狭の然(しか)しめし處で長所にして短所であった。 尚ほ翁の逸話等の記すべきもの少なからずであるが、 そは他日再び記する事にする。
関根名人候補に立つ
小野翁の死後は、八段中で名人の候補者を選定すべき機会となったが、 若(も)し之を盤上の技量に依って定めんとする時は容易に決定しがたいので、 機を見た関根八段の後援者は此の際、関根氏を推薦すべく奔走して、 2月4日在京の七段以上の棋士と斯界(しかい:この世界)の有力者を丸の内の鐵道(てつどう)協会に招請して、 其事を提議した集まった人々は棋士では関根、土居、竹内の三八段、 金、矢島の両七段及び坂田大崎両氏の代表者等で、 其協議の主意は此際他の後進を擁したのでは却(かえ)って争議を生じ、 名人を数人出す如(ごと)き醜態を生ずる恐れがあるが、 関根氏ならば久しく棋道に貢献し、且(か)つ坂田氏も曾(かつ)て其免状を受け土居氏は、 其門に出でたものであり、小菅、竹内両氏は棋を本業とせざる者であるから、 盤上の優劣は姑(しばら)く置き、経歴を重んじて此に関根を推すのが隠当でもあり紛議を避ける便法でもあるとの事で、 先(ま)ず以って異議を唱へる者もなかったが、只小野翁死して尚(な)ほ17日も過ぎざるに、 早くも後継者を推薦するは世上の聞へも宜(よろ)しからず、 故人に対しても禮(れい:礼)を失するであらうとの議を主張するものあり、 一同之を然(しか)りとして此日は単に関根氏推薦の準備に留め、 何れ小野翁の百ヶ日も過ぎた5月比(ごろ)に及び、改めて推薦の事を公表すべしとの内約を為したれば、 関根氏も其時を持って披露会を開かんとの意を述べ、円満に協議会を了(おわ)る事を得たのであった。 右の如(ごと)く坂田土居等の八段始め棋士間に異議を唱ふるものなき上は、 関根氏の名人は変更さるる如(ごと)き事なかるべきも、其事の各新聞紙上に伝はるや、 本社に向け強硬なる異議を投ずるもの少なからず、就中(なかんずく)神戸の伊坂氏岐阜の三桂氏、 木浦新報の如(ごと)き痛切を極めて其不可を論じ、其他多くは反対の投書であるが、 要点は「名人は情実経歴に依るべからず、必ず最強者を以ってすべし。 而(しこう)して現在特に一人を推すべき程の優秀者なきを以って、急に名人を推薦する必要なし」と云ふにあり。 記者も亦(また)意見の存ずるものがあるが、 今回は紙面に限りあるを以って次号に於て代表的投書と共に記者の所見をも記載する。
小野名人が他界した直後の将棋月刊誌の文である。 その前後の事から名人の伝記などを紹介しており、 これもなかなか興味深いものであるが、 続く章を見ると名人の没するのを待ってましたとばかりに関根八段の後援者が次期名人襲位に動いて、 その他の棋界関係者もこれに同調している事が伺える。 これは既に実戦を離れた高齢の小野名人が未だ名人を保持している事に対する批判や、 退隠を求める要望が棋界で高まっていた事があって、 又そのため長く実力的に第一人者であった関根八段が、 指し盛りを過ぎかけるまで待ちぼうけを食わされている事への同情。 もちろん関根師の人望が多くの棋士に支持されていたことも含めての結果であろう。
当然退隠を薦める声は小野名人の耳にも届いたであろうが、 本文にもあるように「偏狭で強情」な一面があるため、かえって意固地になり、 その地位を手放さなかったのではないだろうか。 このことが小野師が晩年孤独の日々を送る一因となったのだろうが、 孤高の名人は敢えてこの運命を承知の上で受け入れたのかもしれない。 この結果、身をもって終生名人制の弊害を知った関根師が名人戦開始を断行することになるのだから、 歴史の転換の因とは全く不思議なものである。
しかし関根八段の名人襲位が、当時の愛棋家に諸手を挙げて受け入れられた訳では無く、様々な批判もなされたようだ。 この雑誌でもおめでとう一色の論評はされず、読者からの否定的な投書を掲載している。
十二世から十三世 名人交代の時 雑誌を通じて見る将棋史2に続く
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