十二世から十三世名人交代の時 雑誌を通じて見る将棋史2

『将棋新報』第13巻第4号

名人候補

名人の候補者に就(つい)ては先年来度々其意見を記したが、 時の趨勢(すうせい)は本社の意見通りに行かず、 突然の小野翁の死去と共に関根八段が候補の承認を受くるに至ったのは前号に略記した通りである。 顧みて本社の主張せし處を再言すると、現今は家元制度が廃して各自の行動が自在であり、 何人が名人と自称するに至っても之を尤(とが)むることが出来ぬ。 只(ただ)同好間で認承すると排斥するとの私人問題に過ぎぬのであるのみならず、 世間は情実と感情で持たれて居るので、其門人とかひいきとか云ふものは理論を別として、 自分の好む處に加担するのであるから、假令(もし)一方で排斥しても一方では認承する事となり、 終(つ)ひには名人となり徳となるのである。 本社は最も此事を心配して、斯(か)くなっては将棋道の破滅であるから、 成るべくは技術の特出を認められた絶対的の候補者を出すまでは、 名計(ばか)りながら小野翁を生かして置きたいものと考へて居たのであった。 世間では小野翁が90を越して棋界に参加し得ざるに拘(かか)はらず、 名人を退隠せぬのは後進の路を塞ぐものだと非難するものが多かったが、 前記の如(ごと)き恐れがあるから、 本社は却(かえ)って小野翁の名人を押(おさ)へて居ることを差当り安心のことに思って居たのであった。

然(しか)るに未だ絶対的の候補者を出すに至らず、 突然小野翁が長逝(ちょうせい:永眠すること)したので、 或ひは名人の争ひが生ずることとなるやも知れず。 それも盤上の争ひならば結構であるが、盤上は棄て置て黨流(とうりゅう:党派・流派)争ひとなって、 先きに本社が心配した名人続出の醜態を生ずる恐れは無きやとの憂慮を生じた處が、 豈に計らんや(あにはらかんや:以外にも)小野翁の死去の知らるると同時に、 第一番に大阪の坂田八段が関根氏を名人に推すことを云ひ出し、 自分は名人の候補に立たざる事を大阪朝日新聞に発表して仕舞ったので、 之が動機となって関根氏の後援者は急に関根氏の名人候補に就(つい)て、 東京其他の棋士間に交渉を開くに至ったが、 之に対し土居氏は師弟の関係上、否応を云ふべき地位にあらずとし、 且(か)つ坂田氏が早くも関根氏を認承した上は、尚ほ更ら(なおさら)文句の云ひやうもなく、 一切世間任せと云ふ事に帰着したので、 此上は只(ただ)一人関根氏の先輩である小菅剱之助氏の主張が如何なるものであるかと注目したが、 小菅氏は既に巨万の富を重ね、且(か)つ代議士にまで為って居るので、将棋の名人などは意中になく、 却(かえ)って関根氏に賛成して、其披露会には特に出席までして盛大にやらすると云ふ意見であったので、 其他の七段以下の棋士は何等の異義を挿(はさ)む余地がなく此に関根氏は無競争で名人に栄進し得らるるに至ったのである。

関根氏の近年の成績は名人候補として立つことに不充分であることは先きに本誌の記した處であるが、 之れは別に論ずることとして、兎も角(ともかく)本社が心配した名人続出の醜態を免れた点に於ては、 却(かえ)って棋道の幸ひであったかも知れぬと思ふのである。 関根氏も「了解自分は90になるまでも名人を押へて居やうなどと云ふ了簡(りょうけん)はありませんし、 若(も)し絶対的の手腕を認められるる程の人が出たなら、何時でも退隠して名人を譲る考えです。」 と云って居るから其事も諒とすべきである。

以上は関根氏が名人に推されたまでの段取りであるが、 単に将棋道を重んずると云ふ同好者間には夫々(それぞれ)反対説があって、 本社に対し数通の投書がある。 之れ等を無視する時は、本社までも関根氏に私するやうに当るから、 本社は公平を守る主張からして其中の代表的と見らるるもの一二を左に抄記する事とする。

岐阜御杉町の三桂氏の主張

名人は戸籍の相続と違ふ。真に名人の技量があって始めて名人に進むべきである。 名人が空位となったからとて何の進境もないものが、先輩と云ふので名人に繰り上ると云ふのは棋界の堕落である。 之を推薦する者も軽率であり之に応ずる人も軽率と云はねばならぬ。 昔は名人の技能ある人の無い間は名人は空位のままであった、 又門下に卓絶した天才が出た時には之に譲って退隠したものであった。 経歴や先輩に依って段位を上下すべきものではない。 名人が空位となったからとて俄(にわか)に名人を作る必要は無い八段級の人々が、 奮戦を経て其優劣を明かに世に問ひ、然(しか)る後に決定するのが公平で且つ至当である云々。

神戸の伊阪誠之進氏の主張

名人の語は其意極めて深遠にして禪的也。 換言すれば極道也、究境也、至極也、至高也。 更に言ひ換ふれば将棋界に於ける名人とは、其技に於て如何なる強敵に対しても常に負くる事なく、 将棋の理法に通暁したる士を名人と云ふ。 禪剣相通ずるが如く棋道も亦(また)名人の域に至れば、禪棋相通ずるの境に到る也。 如上(じょじょう:上に述べたとおり)は名人の理想論也。 此理想を以ってすれば恐らくは現今の棋客中及第者は一人もなかるべしに、 是に於て吾人は当代棋士中より其最も前記の理想に近き人を推して名人となすべしと論ぜんとする也。 然(しか)れば則(すなわ)ち現代の名人に誰をか推すべきかと云ふに、 現今の八段中近年成績は阪田三吉氏を以て第一に推さざるを得ざるべし。 棋界は宜(よろ)しく虚心平気(きょしんへいき:心になんのわだかまりもなく、平静な態度でことにのぞむこと)を以て、 阪田氏を推薦するに躊躇(ちゅうちょ)すべからず、 関根氏が斯界(しかい:この世界)に於ける功労に対しては別に酬(むく)ゆるの方法あるべし。 名人論とは別個の問題とせざるべからざる也云々

朝鮮木浦新報の永楽町人と某氏

私見を以てすれば、名人は濫造(乱造に同じ)せざるに在ると考える。 天野宗歩は百世の一人である。角界の太刀山は数十年を通じての第一力量である。 斯(そ)う言ふ不世出の大才こそ名人と称する真の値がある。 名人はいつでも世に居らねばならぬ、居らねば無理にも製造する、そんな風のものではあるまいと思ふ。 現今名人に定むべき者があるか。小菅氏は関根氏に勝てるも阪田、土居両氏とは平手を戦はした事がない。 戦はずして優劣を定むることは難(かた)い。関根氏は小菅、阪田の両氏に敗れて居る。 阪田氏は小菅氏と戦はず土居と三番戦って一番だけの勝ちである。 更(さ)らに戦って見なくては優劣が定まらない。 仮に一二番の勝敗ありとしても一二番で名人を定むることは出来ぬ。 少なくも四番位勝ち越さなくては優者とは云えぬ。 之に因て見ると現今まだ名人に定むべき優勝がない。 宜(よろ)しく空位のままで後日を待つべきである云々。

以上が代表論で、其他の10数通は大同小異である。 而(しこう)して以上はどれも正論である。本社も勿論同感である。 然(しか)るに本社が今更ら強硬に此事を主張するに張り合ひ抜けのしたのは、 肝腎の棋士が何等の異見もなく先輩の小菅氏までも賛成して既定の問題となって仕舞ったのであるから、 此上に如何に意見を述べた處が徒労に属するのである。 最も関根氏は十数年前に八段になって、 小菅氏の外は、阪田、土居其他の棋士も大抵関根氏に師事したものであるから、 関根氏が候補に立つ以上は之に反対するに忍びざるのと、 外の人が候補になっては却(かえ)って棋界の紛擾(ふんじょう:みだれ)を生ずる恐れがあることを察したので、 関根氏が候補に立つのを一番平穏だと云ふに帰したのである。 只(ただ)姑(しばら)く名人を空位に置くべしと云ふのは本社の大に賛成する處であるが、 之も既往(きおう:済んでしまったこと)に属して仕舞ったとすれば、 強いて紙面を費やすのも無益であるから已(や)むを得ず筆を止めて、 此上は只(ただ)関根氏の前途と棋界の隆盛を祝福して居るより外は無い。

本文の通り誌上の論評は「結果そうなった以上異議を唱えず受け入れよう」という消極的な肯定論で、 愛棋家の投書は「次期名人決定を急ぐべきではない」と「真の最強者こそ名人になるべき」に集約されるだろう。

確かに関根八段にはこの時点の最強者と言うにはいくつかの瑕があった。 一つは対戦成績で大きく水を開けられている小菅剣之助八段の存在。 また少々指し盛りを過ぎた感のある関根師に対し晩成型の阪田三吉はさらに力を付け、 弟子の俊英土居市太郎も進境著しい。 この三者と仮に番勝負を争えば、勝ち切ることは困難というが大方の見解であったろう。

棋士の大半と将棋界の有力後援者達は、長く雌伏を強いられた関根師の事情を熟知し、 また将棋界への貢献度や人望を充分に理解しているため名人襲位に喜んで賛同するのだが、 一般の愛棋家にはここまでの経緯は性急、かつ不透明な談合の結果のごとく見えたに違いない。 投書の文面も時代のためもあろうが劇的で、 彼らの「名人」に対する想いが今日より遥かに熱いものであることを感じさせられる。

また神戸の伊阪氏のように、特に関西を中心に阪田三吉を推す声が高かったのも事実だろう。 実際、生前小野師は関根師と不仲であり、意中の後継者は阪田三吉であったと伝えられる。 しかしこの頃名人は既にそれを実行に移すための勢力、人脈を失っており、 また当の阪田八段も本文が事実なら関根新名人に「一早く賛同の意を表した」のであるから、 この時点では関根師を棋界の代表者と認めていたことは間違いない。 その阪田師が後に「関西名人」を名乗り中央棋界と決裂するに至るのは、 全く運命の皮肉と言うより無い。

十二世から十三世 名人交代の時 雑誌を通じて見る将棋史3に続く

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