初世名人。
京の町人の出とされ、囲碁初世名人本因坊算砂らとともに碁打ち、将棋指し衆として室町時代末期よりその名が見られる。 碁会にも招かれている記録があることから、その方の腕前も相当だったと推されるが棋譜は未見。ご存知の方は一報願いたい。 その技術で公家、武家らの上流階級と交流のあった(算砂の力によることが大きかっただろうが) 宗桂は将棋の芸としての地位向上に大きく貢献し、江戸期に入って家康より五十石五人扶持の俸禄を受けた。 これがいわゆる「将棋家元」の始まりである。 また、今日多くの愛好者を持つ詰将棋も宗桂の献上図式をもって始めとする。
二世名人、初代宗桂の長男。
部屋住みのころから駿府城などに出仕して俸を受けていたと伝えられる。 宗桂没後大橋家の家禄を相続したことで将棋家の世襲の形が成立した。 また、宗古の代に弟宗与が大橋分家、門弟宗看が伊藤家を立て将棋三家が定まり、家元制の足場が固まった。 宗古は献上詰将棋『象戯図式』の巻末にて行き場の無い駒・二歩・打歩詰を禁じ手とし、 千日手は仕掛け方より手を代える事と記している。これが初めて成文化された将棋のルールである。
七段、宗古の子。
献上図式の準備(通称、将棋衆妙)をしていたことから、当然志は八段→図式献上→名人襲位であっただろうが、 5歳年下の天才宗看(初代)が彼を追い抜く形で将棋所を襲位し、いずれも果たせぬまま48歳で世を去った。 更に2年後に四代宗伝が25歳で早世し、大橋本家の血筋はここで途絶えることとなる。
四世名人、前名伊藤宗銀、初代宗看の子。
寛文4年(1664年)大橋本家に養子入りし家督を継いだ。 二代宗印、三代宗与らとの御城将棋の他、門人の山崎勾当が著した『将棋亀鑑』にその棋譜がうかがえる。 筆まめな人だったらしく将棋の心得を諭した『象棋百ヶ条』を記し、 また日記的な『五代宗桂記』は当代を知る上で貴重な資料である。
五段。養子。前名不詳。
伊藤印達と4番手直り57番指しを戦った事で知られる。 囲碁界に比べ、極めて平和裏に推移してきた将棋界で、確認できる唯一の争い将棋の主人公である。 年長者であることのプレッシャーと段位を上回る印達の力に押され、最終角落ちにまで指し込まれてこの勝負は終わった。 15歳で早世した印達の後を追う様に1年後20歳で没している。
七段。
六代宗銀の早世により急きょ養子となり家督を継いだが、前名も不詳な謎の人。 御城将棋も五局しか勤めず、享保9年(1724)30代で早くも伊藤家より養子を迎えて隠居した。 この時後継者の八代宗桂は僅か11才であり、七代宗桂はあくまで家名存続のための、引継ぎ役を担った人であると言えよう。
八段、前名伊藤宗寿、二代宗印の三男。
11歳で大橋本家の養子となる。これにより他の兄弟達と一定の距離を置くことになり、 それが弟看寿に八段昇段で先を越される一因となったのかもしれない。 看寿、宗看が相次いで没して後、将棋界は27年に渡る名人空位時代を迎えることになる。 原因に関しては諸説あるが、大きな理由の一つは分家四代宗民の存在であっただろう。 この時七段の宗桂は当然次期名人の有力候補であり、その志も当然あったはずだが、 そのためにはまず八段昇段を図らねばならない。
しかし宗与がこれを聞けば「ならば八段の自分が将棋所に」と主張し譲らぬ可能性がある。 そうなれば「争い将棋」にて決着をつけることとなるやも知れず、さらに万一敗れれば…となればうかつに行動は起こせない。 以上はあくまで推測ではあるが、事実宗与の逝去を待って八段昇段を果たしていることから、あながち外れてはいないと思う。 多分逆に宗与が将棋所を主張すれば、宗桂も強硬に自身の昇段と名人への動きを見せただろう。 長い空位時代は、宗与と宗桂両者の睨み合いがもたらしたものと考えられる。 宗桂は昇段し献上図式『将棋大綱』も納めたが、結局将棋所には襲位しなかった。 名人空位は宗桂没後さらに12年、子の九代宗桂が襲位するまで続く。
八世名人。八代宗桂の子。
江戸期名人中実力上位に揚げられる人だが、昇段は比較的ゆっくりとしており空位にあった名人襲位も46歳と遅い。 おそらく一つは父八代宗桂との段位のバランスを計った結果であり、また献上図式作成に十分時間をかけたためと思われる。 八代、九代宗桂親子は、近づくことすら困難な絶峰とも言える『無双』・『図巧』に果敢に挑戦した。 両者の献上図式『大綱』・『舞玉』はその努力の跡が十分に窺える作品集である。 しかしこの作業が家元衆にとって大きな負担となりつつあったことは間違い無く、 九世名人大橋宗英が創作努力を放棄したため献上図式は『舞玉』をもって最後となる。