八段、二代宗古の弟、一名宗有。
大橋分家の祖であるが、事跡や棋譜がほとんど伝わっておらず、多くが不明の人である。 子の二代道仙が「宗」を名乗らず、おそらくは将棋指しでなかったことなど大橋分家の初期には謎が残っている。
伝不詳、初代宗与の子。
この人は棋譜等が一切伝わっておらず「宗」の字も名乗っていない事から、将棋指しではなかったと思われる。 しかし家督を相続している以上扶持も受けている訳で、その当主が出仕もせず無職であるとは考えにくい。 あくまで推測ではあるが、多分他の芸能に携わっていたのではないだろうか。(大橋家は元々能役者との説有り)
六世名人、大橋分家で初の名人。
御城将棋では先輩の五代宗桂と、後輩の二代宗印の両巨頭にはさまれる形で圧倒されていた。 これは宗与の父二代道仙に棋士として活躍した形跡が全く無く、 要するに教わる者がいなかったという環境の差が非常に大きかったためだろう。 20歳以上年下の宗印が将棋所に就いた時点で、宗与の出番は絶たれたはずであった。 しかし宗印が先に世を去り、次代を担う三代宗看や四代宗与がまだ10代であったため76歳と記録的な高齢で名人に推されることになる。 仮に宗印の長男印達が存命ならばおそらく父の後をそのまま継いだであろうから、 正に宗与にとっては望外の出来事だったに違いない。
そのため献上図式の準備などは全くしておらず、 急きょ間に合わせた通称『将棋養真図式』は、先達の作品の改作や不完全の多い図式集として後世に悪評を買っている。
八段、三代宗与の子。
四代宗与はその生涯が伊藤家の全盛時と重なったため、御城将棋の成績はあまり芳しくない。 本来なら共闘することも出来るはずの大橋本家すら、伊藤宗寿が相続するに至っては、 正に右を向いても左を向いても伊藤兄弟ばかりの将棋界で、ひたすら孤軍奮闘するより無かったのは不運である。 そんな逆境の中で八段まで上ったことは評価されて良いだろう。 名人はかなわなかったものの大橋分家の面目を十分に果たした人である。
七段、前名中村宗順。
明和2年(1765)大橋分家の養子となる。 30歳を過ぎての相続で、五段への昇段もその翌年と家元衆としてはかなり遅い。 棋才はあまり無かったようだが、子六代宗英を良く養育し、大橋分家の将来を託した。
九世名人、五代宗順の子。
庶子であったため、幼少の頃里子に出されていたが、将棋の才を認められ呼び戻されて家督を継いだと伝えられる。 宗英は家元制で最強の名人とされる。また従来の戦術、大局観に一種の革命をもたらしたため「近代将棋の祖」とも呼ばれている。 例えて言うと、玉を固めて捌きで勝負の「焦土戦術」や、 玉頭戦での厚みを最重視などの「負けにくい」戦い方の基本思想は宗英をもって始まりとする。 この感覚はやがて「近代将棋の父」天野宗歩らによって発展、洗練されて、現代将棋への道が作られて行った。
また大変指導に熱心な人であり、相手の棋力、身分にかかわらず何人にも快く対局に応じたという。 宗英は詰将棋を一切創作せず、献上図式の慣習を途絶えさせた。 理由は定かではないが、おそらくいかに労力を費やしても宗看・看寿に及ばぬことを悟り、 その分を棋士の本分である実戦の研究に集中したかったのであろう。 御城将棋に病をおして出仕し、その日に没したという劇的な最期が伝えられている。
七段、前名英長。
六代宗英の嫡子。七段だが棋力に対する評は低く、専ら父宗英の遺産である定跡書や実戦集の開版に尽力した。 おそらく自らの棋才の限界を早くに悟り、普及・営業活動で一家を保とうとしたのだろう。
七段。
柳雪の廃嫡により大橋分家を継ぐ。天野宗歩を下した御城将棋の一戦はよく知られ、 宗a一代の名局であるが、巷の噂として、
これまで宗歩に勝てず、家元の責に苦悩する夫の姿を見かねた宗aの妻が神仏に宗歩折伏を祈り、 結果宗aは遂に宗歩に勝利を収めた。しかしこの報いとして彼女は狂死し、宗aも病を発しやがて45五歳の若さで世を去った。という因縁話の様なものが伝えられている。