十二世名人小野五平は天保2年(1831)10月6日、阿波国今日の徳島県の脇町に生まれ、 青年の頃棋士を志して京に登り天野宗歩の指導を受け、 おそらくはその紹介で十一代大橋宗桂の門下となった。 通説五平は宗歩の門下とされているが、それはこの辺の事情を取り違えたもので、 将棋博物館所蔵の小野五平の免状が大橋本家発行であることから、 五平が大橋門であったことは疑い無い。入門時すでに四段ほどの棋力があったと言う。
明治13年に八段に昇り、明治33年に推されて十二世名人に襲位したが、 その棋譜は意外なほどに知られておらず、棋風や強さに関する評価も散見するに止まっている。 特に名人になってから、大正10年に91歳の高齢で没するまでの対局はほとんど大駒落の稽古将棋ばかりで、 その真の実力は多くの愛棋家にとっては謎であった。
今回の特集では五平の棋譜を紹介しつつ、その実像に迫ってみたいと思う。 筆者が小野五平に注目したのは、 本コーナー解説に当たって古棋書を調べていたおり『溝呂木光治八段著 小野五平実戦集』を手にしたことから始まる。 それまでなんとなく小野名人といえば、福澤諭吉ら当時の上流階級をスポンサーに持って政治力を背景に名人となり、 その後は実力者との対戦を避けて地位を守ったという偏見的なイメージがあって、 将棋自体は大した事はなかったのではないかなどと思っていた。 しかし次の一局を並べてみて、その考えは一掃される。 牛歩の様ではあるが、その手厚さ、力強さは正に名人の風格を感じさせるに充分なものである。 本局は小野名人渾身の一番。明治の「死闘」の凄みを味わって頂きたいと思う。 この将棋の背景については、下記の如く伝えられている。
本文中、日付など一部漢数字は読みやすいように算用数字に直し、 句読点をふりなおした。また、読みにくい・意味のとりにくい語には振り仮名・注をつけた。
溝呂木光治八段著『小野五平実戦集』小野氏は明治12年に七段に上り尾野を小野と改姓した。 伊藤氏とは大橋宗与宅にて百番出版交合会の時、屡々(しばしば)手合せあったが、 ある事情のため、両人衝突を来たし、遂に交合会が中止となって以来、打ち絶えて手合わせしなかったが、 然るを当時の棋道熱心家が上手の手合わせのないのを惜しんで仲介斡旋(あっせん)して手合わせを行なったのである。 そうであるから、伊藤氏にとっても、亦(また)、小野氏にとっても仲々負けられない勝負であった。 普通なれば、疾に持将棋となって終局に終わるべきを前記の事情のため、 小野氏頑強に攻めたて、伊藤氏極力防戦したけれども遂に目的を達しえず、破れたのである。 対局後、伊藤氏は恨みの余り病床に就(つ)いたとの言い伝えが残っている。 小野氏としては、前局の勝田仙吉氏の昇段争い将棋とこの2局は指し将棋中の双璧で、 充分実力を示して戦った跡が歴然として残っている。
筑摩書房『日本将棋大系12 伊藤宗印・小野五平 巻末 人とその時代 山本亭介』宗印との確執
小野は明治棋界の再建のため宗印が呼びかけた「百番出版交合会」には欣然として参加し、 明治2年5月21日薬研掘の大橋宗与宅で行われた宗印との平香交りの平手番以来、 明治5年1月20日の連将棋(伊藤宗印・大矢東吉・尾野五平・登加利永祐)までは宗印と行を共にしていた。 その年の6月6日、深川木場の鹿島清次郎宅で宗印と香落番を指し、 その後は「尾野五平会」を組織して、宗印とは別行動をとるようになっていた。
宗印との確執は既述のように昇段をめぐる葛藤であった。 すでに小野は、福沢諭吉、森有礼といった有力な後援者を得て、独自の道を歩みはじめている。 当然、願いは名人襲位であったが、先輩の宗印が棋界再建に献身し、実力も上回っていては、 先を越されるのも致し方ない事であった。 その代償として、宗印亡きあとは十二世名人を襲うという確約をとっておきたいと考えていた。
明治12年小野五平と改名した。4月13日宗印の名人襲位の噂を耳にするや、 両国の中村楼で華々しく将棋会を催した。それも宗印に対するデモンストレーションであった。 翌日付の『東京曙』紙は、「小野五平の将棋会」と題して、次の記事を掲げている。
昨日両国中村楼に開筵おはりし会主小野五平氏の将棋会は、中々に盛んにして、 福沢諭吉、森有礼の両先生他有名の諸君も臨席せられ、飯塚納君の西洋将棋、仏国人某との手合等面白かし。
宗印の側としても、こうした小野の勢力を無視することはできず、 そこで、藤堂詢蕘斎(旧津藩主)木場の鹿島清左衛門の申し入れもあって、小野の七段昇段を認めるとともに、 2人は平香交の香落番で盤に対することとなった。 宗印が十一世名人を襲位する5日前の明治12年10月13日、本所亀沢町の藤堂隠宅で対局を開始した。 これは、宗印には八段としての最後の対局であり、45手にて指し掛けとしたが、 同月26日宗印が十一世名人を襲位してから、こんどは鹿島宅にて指し継いだ。
第2回目は、68手にて指し掛けとし、さらに、11月9日午前10時から指し継ぎ、 10日午後12時、小野の勝利で終局となっている。中盤以降、本来なら持将棋となるところであるが、 小野は頑として妥協せず、252手で宗印の玉を詰めてしまった。 小野とすれば、この一番を「争い将棋」と見ていたし、これに勝って次期名人候補の資格を棋界の内外に示そうとした。 事実、この宗印に対する勝利は、次期名人継承問題が起こったとき、 なに人も反対できないほどの強力な実績となっていた。
後略
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上手三間飛車は、香落ちでは最もポピュラーな戦型。24手目5六歩では1四歩の仕掛けが普通だが、 五平はゆっくり指す方針か。29手目7四歩から5一角は仕掛けさせるための隙で、 3四飛と組めれば作戦勝ち。故に4五歩は当然の一手。44手目3三桂まで上手は軽い形で十分に指せそうだが、 7四歩のキズもやや気になるところ。 銀桂交換後48手目3三歩に4二飛がどうだったか? ここは同角と取って以下、2三飛成、8八角成、同玉、4二飛で やや良しの局面と思う。本譜は3六桂が重い様で堅実な好手。 宗印としては角を捨てても57手目1八飛成まで飛車を捌いて、1筋の成駒2枚が遊んでいるので優勢という大局観だったのだろうが、 この成香、成桂が後に大きく働くことになる。 60手目3六角から五平の力強い受けの本領発揮。上手玉頭からの反撃に3二歩成から2二角成とは落ち着いたもの、 69手目5五歩も恐い手で、同馬だと6四銀から5七歩〜7七銀〜6五桂の筋が相当だが、ここでも5九金引と誤らない。 72手目7四歩は7三桂の活用を抑えたもので渋い。 続く4二とはこの局面では驚嘆の一手で、五平は上手に手を渡すことを全く怖がっていない。 受けに絶対の自身があるからなのだろう。 以下しばらく必死に手を作ろうとする宗印と、丁寧に面倒を見る五平の緊迫した戦いが続く。 104手目6六銀で下手の真の狙いが明らかとなった。 4九歩成で網が破れたかに見えるが、5七玉から入玉の道が開けている。 こうなると一筋の成駒が貴重な戦力として光彩を放っていることがお分かり頂けるだろう。 自陣の駒を取らせる代りに一目散に脱出して、116手目2三玉となってはもう五平の玉はつかまらない。 となれば宗印には、自分も入玉しての持将棋しか手段は残されていない。 通例ならばこの対局は宗印名人襲位後の第一局でもあり、瑕をつけぬ様この後淡々と指して持将棋にし、 いや熱戦でした両者お見事で手を打つところなのだろうが、 五平にとっては次期名人を賭けての一局。決して妥協はしない。 126手目6六銀はその意志を示した一手である。7六竜から上部開拓を巡っての捻り合いとなり、 140手目5一とから3三歩成〜4三とと、と金で寄せを狙う五平に宗印も7三玉から脱出開始。 150手目7六金が強手で竜を奪い取り、今日ならもう駒数で下手の勝ちだが、当時は規定がないので入玉されれば引き分けとなる。 まだまだ五平は油断できない。 164手目6四馬でいよいよ上手玉風前の灯かと思えるが、宗印4一角から6三金と執念の粘りで土俵を割らない。 178手目8九香など痛打を浴びながらも少しずつ前進を重ね、189手目8七同玉まで、何とか敵陣に侵入を果した。 しかし下手の手駒は強力、ここが最後の勝負所である。192手目8九銀の「待ち駒」は当然。 200手目7七金から5七馬が本局の決め手で、上手玉を押し戻しさえすればもう指し切る心配はない。 212手目6六竜で部分的には必至となり、ここが投げ処だったとも思うが、宗印の意地は3四銀と更に抵抗を挑む。 以下手順を尽くして玉を王手飛車のラインに追い込み、6六角と何とか飛車は手にしたものの、 これだけ駒を渡しては一時凌ぎに過ぎない。 224手目7八金から俗手の寄せで問題なし、最終9五歩では7六角、同金、同金上、8四玉、9四金、同玉、9二飛で簡単な詰み。 もちろん五平がこんな手を見落とす筈もなく、これは自身最大の敵宗印に盤上のみならず、 心にも止めの杭を打ちこむために指した手と見る。 棋界最高位の名人に対してのこの仕打ちに、 誇り高き宗印の想いはいかばかりであっただろうか。溝呂木八段の記するとおり「恨みの余り病床に就いた」としても無理はあるまい。 かくしてこの死闘を制した五平は、十二世名人への確実な一歩を踏み出すことになる。 特集 十二世名人小野五平 その知られざる実力2へ続く |