今度は青年時の五平の将棋。相手の勝田仙吉は後の大橋分家九代宗与八段。 本局は下記の通り仙吉の昇段を巡って、これに五平が異を唱えたことが発端となった真剣勝負である。 確かに当面のライバルである仙吉の昇段は快いものではなかっただろうし、 ましてや対戦成績で圧倒していたのなら尚更のことである。しかし事を穏便に収めずあえて「争い将棋」を挑むあたりに、 五平師の妥協を許さぬ強情な性格の一端が見て取れる。
溝呂木光治八段著『小野五平実戦集』大橋分家八代宗与氏の養子となり、九世大橋宗与となったのは、この勝田氏でこの一局は養子になれるか、 なれないかの分岐点であった。だから、彼は非常に緊張して、指しかけなどで休息せず、通し3日間指し続けたのである。 両氏とも当時は新進売出しの棋士であったが、当然仙吉氏の方が強いと評判されていた。 然し、勝敗にかけると、常に小野氏に負け通していた。そして勝田氏が六段になって家元の後継ぎに供する時に、 小野氏が六段にならせないと云って争い将棋となったのがこの一局である。
小野名人の生涯の中には争い将棋の大きなのが三つある。 一つはこの勝田氏との局であり、もう一つは伊藤宗印氏との対局であり、 現名人関根氏との局も、見方によってはそうとも云えよう。
角換りから今日で言う「新旧対抗型」となる。28手目5四銀に4六角は愕きの一手だが、 溝呂木八段によると小野師は持ち駒の角を早目に打ちたがる癖があったという。 これは師に私淑した阪田三吉にも同様のことがいえ、この共通点は大変興味深い。
ともあれ先手は角を手放しても5五の位を取り、35手目5六銀まで好型に組上げれば釣合いは取れているとの判断なのだろう。 第二次駒組みに入って45手目9五歩は、相手が端を受けなかったので気合ともいえるがどうだったか。 4六歩から2六角を急ぐべきだったのでは。
後手は5筋の交換から銀矢倉に組替え、54手目2四歩と意外なところから戦端を開く。 しかしこれは流石に無理筋で、57手目7五歩から5四歩〜5五銀の反撃を食って苦戦に陥った。 2四歩では平凡に6一飛位でやや作戦勝ちだったと思う。 5五銀に同銀は2五飛から5五飛で次に7五飛と捌かれて拙いので、6三銀の後退はやむを得ないが辛い。 この一手に仙吉はなんと26時間を費やしたと言う。
苦戦の中にも64手目4七角は粘りのある手で、容易には土俵を割らない。 4四銀から5三歩と効かし先手の攻勢が続き、74手目4五銀は勝負手だ。 4二歩は手筋だが、飛車を走った後の79手目4五飛が敗着となった。 溝呂木八段が後年小野師の述懐として聞いたところによると、 ここは4三歩、同金、2四歩、同歩、3三銀成、同金、2四角、同金、同飛、2三歩、3一銀、同玉、2三飛成で決まっていた。 以下2二歩と受けても4三歩で、2三歩、4二歩成、同玉に4四飛の王手馬取りが厳しい。 重大な局面でのこの見落としは、後手の相次ぐ長考に根負けし、焦った気持ちが現われたためだと名人は語ったそうである。
飛車を追い払って84手目5三金と目障りな歩をはらっては完全に逆転、何と言っても7四の馬の手厚さが光っている。 喜太郎も端攻めから89手目3五角と勝負手を放つが、5二馬が落ち着いた手で攻めが続かない。 2四角と逃げていては2三歩から5六歩で完封なので1四歩以下飛車を捌いたが、如何せん角損はあまりにも大きく大勢は定まった。
102手目4六飛と活用されては粘りも利きそうにない。 後の手順は小野師の意地が差し続けさせただけのもので、駒得を重ねながらの寄せで仙吉の独壇場。 投了図からは簡単な詰みである。この一番を制し晴れて大橋分家の養子となった仙吉は、 先述の通り九代大橋宗与として明治の棋界再建にも尽力したが、 ある事情から罪を得て獄中の人となり明治14年、失意の内に病没したと伝えられる。
特集 十二世名人小野五平 その知られざる実力4へ続く