対局者プロフィール(江戸時代前半)

本因坊算砂 1559-1623

囲碁一世名人。京の人、前名、加納輿三郎。

法華宗の僧で法名日海と言い、京都寂光寺の塔頭本因坊にあった。家康の招きで江戸に出仕してのち、本因坊算砂と名乗る。 碁打ち、将棋指し衆の統括者的な地位にあった算砂は両芸に秀で、囲碁は天下無敵。将棋も当時5本の指には入る腕前であった。 今日宗桂、宗古との棋譜が残されている。

信長、秀吉、家康の3代に仕え、囲碁、将棋の芸道としての地位を大いに高めた算砂は江戸期に入って名人碁所を開き、 その際に将棋の司を宗桂に譲った。これらが実現したのは算砂の社会的地位、政治的手腕に負うところが非常に大きいと言える。 囲碁界で開祖として尊崇をうける算砂は、将棋界にとっても忘れてはならぬ恩人である。


松本紹尊 生没年不詳

七段格。美濃の人。一名権兵衛。

初代宗看との30番指し(34番との記録もある)で知られるが、その他の棋譜や対戦が伝えられていないのは謎である。 本因坊算砂の門下とされ、おそらく本名が権兵衛(ごんのひょうえ)で、紹尊は棋士としての号なのだろう。

宗看との番勝負を争い将棋とする伝があって、今日でもあたかも事実のように紹介されているが、証拠はなくあくまで俗説である。 この点について少々考証してみよう。まず「争い」将棋を起こす以上必ずはっきりした目的があるはずで、 囲碁界では昇段や碁所を巡ってとの記録が残っており、寺社奉行の許可も取っている。紹尊の場合これらの記録が無い。 また、宗看とは平手互先だから在野棋士としての手合では頂上に達しているので昇段争いではない。 強いて意味を求めれば大橋分家、伊藤家の設立に対しての不平不満となるが、 これは俸禄を与えた幕府に逆らうとも取られかねない危うい行為である。紹尊はじめ在野棋士がとても行える手段ではない。

宗看は在野棋士と実に数多く対戦した人である。目的は戦法、戦術の革新で、ひいては定跡の確立だったと思われる。 証拠として揚げられるのは、多彩な戦形や新趣向を一局一局に試みていること。 一例としては居玉からの開戦や、角交換相居飛車で後手の8五歩に7七銀ではなく7七金と指してみたりもしている。 当然囲いの概念は宗桂時代にすでに確立していたし、 7七金も宗看の感覚が悪い訳ではなく「通説悪いとされている形だが実際指してみるとどうなのだろう?」との探求心から 試みたものと思われる。しかしこれらの実験は手合違いの相手と行っても当然ながら意味が無い。 総括すれば宗看にとって紹尊は十分に力を出して戦える数少ない先輩棋士であり、 30番勝負は今日で言う研究会のような申し合わせだったと考えられる。


萩野真甫 生没年不詳

六段格。長門の人。

真甫も巷説に松本紹尊が敗れた後、争い将棋に名乗り出た在野の二番手などとされているが、 当館所蔵の『三代宗桂筆古名人手合帳』によれば「九年間で七十番」も指したと記されている。 もちろんこんな気の長い争い将棋などある訳が無い(ちなみに宗看40勝)

宗看との手合は香落ちで、分は悪いものの健闘しており当時では屈指の強豪である。 これだけの番数胸を借りていることから、真甫は宗看にとって練習相手に足り得る、 見込みある弟子(もしくは兄弟々子)の一人だったのだろう。


檜垣是安 生没年不詳

五〜六段格。京の人。

「雁木の創案者」の伝。また「是安吐血の一戦」で悲劇の主人公とされたが、これらも俗説にすぎない。 ご存知ない方もおられるだろうからここで紹介しておこう。

巷説宗看と争い将棋

江戸期に入って将棋所が創設され、やがて大橋分家、伊藤家が立てられ家元制が定まった。 しかしこの時相応の実力を蓄えていた在野の強豪達はこれに反発し、遂には将棋三家に対して勝負を挑むに至った。 だが宗桂は既に世に無く、宗古も高齢で争い将棋には耐えられない。そこで彼らの挑戦を受けたのが若き日の宗看である。 まず、一番手の松本紹尊の30番指しでは始め4連敗と苦戦するも、結局20勝を収め圧倒した。 続いて萩野真甫を香落ちで退け、最期に名乗りを上げたのが是安であった。 彼は雁木の新戦法を編み出し、平手での対局を望んだが、まず角香交りで香落ち、角落ち2番が指されることとなった。 緒戦の香落ち番は下手が制し、意気上がる是安は宗看に聞こえよがしに「伊藤殿はなぜ平手をお受けにならない。 それほど雁木の囲いが恐ろしいか」と言い放ったという。続いての角落ちは明らかに是安有利の手合のはずであったが、 この一番宗看は鬼神の如き力を発揮し、悲壮なまでの粘りを見せる是安を遂に押し切り勝利した。 この結果平手戦の夢を断たれた是安は落胆のあまり吐血し間もなく世を去る。 故にこの一局を「是安吐血の一戦」と呼ぶ。 かくして在野の挑戦をことごとく退け家元の権威を守った宗看は、 やがて将棋所に襲位し比類無き大名人と世に称えられることとなった、云々。

話しとしてはドラマティックで大変面白いが、ほとんど講談に近いフィクションである。 まず紹尊、真甫については先述の通り。雁木囲いは紹尊が既に指しており、 そもそも中央に二枚銀を並べる形はこの時代の基本なのだから、それ以前からあったと考えて間違いないだろう。 争い将棋については、宗看と是安は以前から対局しており、この角香二番のみが何故「争い」とされるのか理解に苦しむ。 さらに是安はこの対局の七年後の棋譜が残っていて、吐血云々は全くの虚構である。 是安は真甫と同じく、宗看の優秀で熱心な弟子の一人とみるのが妥当だろう。


石田検校 生没年不詳

六段格? 肥後の人。

検校は盲人官位の最高位の称号。現在でも人気の高い石田流≠フ創案者と伝えられる。 たしかに残されている数少ない棋譜の中で、廣庭中書を相手に石田流を採用している。 指された時期が不明なので明確には言えないが、最終六段格の中書と平手後手番なので同じ位の棋力だったと思われる。 実際この将棋は敗れたものの、内容の充実した熱戦である。


廣庭中書 生没年不詳

六段格。京の人。

中書は「中務省」を勤める者の略称で、正式官位は中務権少輔。おそらく公家であろう。 先述の石田検校との対戦や、初代宗看に角落ちで勝った棋譜などが伝わっている。


望月仙閣 生没年不詳

四段格。京の人。一名勘解由。

伝わる棋譜は少なく、むしろその詰将棋が有名。 別掲の『四桂之作物』や、同じ持駒で盤面四隅の玉を詰ませる『四隅之作物』、 詰まされない受けの手順を探す『逃れ図式』など遊び心あふれる作品を残している。


与都と誰都 生没年不詳

両者四段格。京の人。

都は「いち」と読む。盲人官位の最下位(上より検校、勾当、座頭、都。さらに細かく分けることもある)で、 おそらく「按摩」をしながら、贔屓のお客とのコミュニケーションの手段として将棋を覚え、 その内将棋会などに出るようになって腕を上げたのだろう。両者ともなかなかの実力で、好敵手だったと思われる。


山崎勾当 生没年不詳

四段か五段格。江戸の人。多川、田川、関井とも称した。

この人は自分の勝局集『将棋亀鑑』を出版したことで知られ、そのため多くの棋譜が残っている。 かなり多数刷られたらしく、当館にも複数所蔵されている。「勾当」身分の者は金貸しの業が認められていたので、 彼も裕福で生活、時間に余裕があったから、このような一種の道楽が行えたのだろう。

五代宗桂の門下で、多く指導を受けているが、 巷説では『将棋亀鑑』の出版が敗局ばかり載せられた師の逆鱗にふれ破門されたと伝えられる。 たしかに自己顕示欲の表れのような本だから、さもありなん話しと思う。 その他、宗桂に五段昇段を求めたが、争い将棋に敗れてかなわなかったという伝もある。 しかし実力的には五段かそれ以上であるようだ。

添田宗太夫 生没年不詳

七段 加賀の人 神山孫兵衛とも。

越中富山?前田家(加賀百万石前田家の分家)の家臣で、元禄から享保にかけて活躍した強豪。 彼の詰将棋作品集『将棋秘曲集』は詰上りが具象型となる『曲詰』ばかりを集めたもので、 実戦の終盤から完全に離れて遊びの部分のみを追求したこの作品集は、詰将棋史の中でも重要な位置を占めている。


名村立摩 生没年不詳

六段 越中の人? 一名宗左衛門。名邑とも。

添田宗太夫と同じく越中富山藩士。宗太夫が六段となっている名寄に初段で名が出ており、 おそらく指導を受けたりもしたのだろう。俗説に立摩は七段昇段を望んだが三代宗看に容れられず、 ならばと争い将棋を挑むが、角香交じりの初戦の角落ち番に敗れてしまう。 窮地に追い込まれた彼は腐心の末に「立摩流」という新手法を編み出し見事に香落盤で雪辱を果した。 との伝がありこの二局の棋譜も残っている。又続きとして一勝一敗なので結局昇段はならず無念の涙を飲んだ。 もしくは健闘に感心した宗看が七段を与えようとしたが、角落盤を負けたことを恥じて立摩が辞退した。 というような話もある。いずれにせよ争い将棋云々をふくめて所詮は「物語」であろう。


有浦印理 生没年不詳

七段。京の人?

二代伊藤宗印の高弟で、当時の民間棋士の代表的な強豪。その高い棋力を評価され、 宗印の推挙で宮本印佐と共に六代将軍家宣の旗本に召抱えられたと言う。 印佐が初段の名簿に四段で登場しており、印理の方が先輩であったという事が分かる。


宮本印佐 生没年不詳

七段。江戸の人。

有浦印理と同様に、宗印の推挙で旗本となった。印理とは良きライバルだったのであろう。 自らの子以外にも彼らの様な高段者を育てた宗印は、やはり卓越した指導者であったと言えるだろう。


将棋の歴史コーナートップへ
メインページヘ