七段。徳川幕府十代将軍。九代将軍家重の長男。
大の愛棋家将軍として知られ、五代宗印、九代宗桂、二代看寿ら家元衆や将軍近習の旗本たちと対局し、多くの棋譜を残した。 また、御城将棋で家元衆と近習の対局いわゆる「御好み」が組まれたのも、この将軍の求めによるとされている。
周囲が若干緩めて対局している風が棋譜から感じられ、正直実力七段は疑問ではあるが、 非常に筋の良い軽い棋風で現在のアマ高段の力は十分にある。 特に詰めには鋭く、かなり長手数で変化複雑なものもきっちりと詰め上げている。
その他、詰将棋も堪能で図式集『将棋攻格』百番を著すなど、とにかく多才且つ異色の将軍といえる。
七段。信濃の人。前名龍治、順棋とも。
若き日の宗英との棋譜が残されており、大橋分家の門人と推定される。 民間では数少ない七段に昇り、尚且つ確かにその実力があったとされている人。 定跡書「将棋絹篩」を出版していることから、当時でも高名な強豪であったことが窺える。
鵜飼彌五郎 生没年不詳
四段〜六段。江戸の人。
福島順喜と同様、若い宗英に上手で胸を貸しているので、大橋分家の門人と思われる。 棋級は大橋家文書の名簿では四段。 将棊粹金他では六段となっている。宗英との棋譜を見る限りでは実力は良くて四段といったところだが、 青地青季のように多くの「稽古料」の御礼として六段が允許されたのかもしれない。
四段。江戸の人。
『将棋営中日記』にもその名が見られ、 常に「清水幸助が泣き将棋」と題する自分の敗局百番を記した書を持ち歩いていたと紹介されている。 相当生真面目に将棋に取り組んでいたのだろう。
六段。江戸の人?
大橋柳雪との二十一番指し(半香下手)の棋譜があり、天野宗歩に平手で勝ったこともある強豪。 俗説では宗歩に負けたときの帰り道検校が「儂が目明きならば良き勝負であるべきものを」とこぼすと、 「左様ではあるまい、ならば同じ条件にて」と宗歩に返され、 口々に指し手を言い合う「目隠し将棋」を始めたが、帰り付くまでにやはり圧倒されて脱帽したという物語も作られている。
七段。江戸小石川の人。前名中村喜多次郎、英節。
文政元年(1818)大橋分家の養子となるが、同12年廃嫡となり野に下る。 理由は病がちであった為という。棋級は七段だが実力は更に上と思われ、 その将棋は「近代将棋の祖」大橋宗英と「近代将棋の父」天野宗歩を繋ぐ位置にあって今日でも高く評価されている。
毛塚源助 生没年不詳
六段。江戸日本橋の人。
江戸日本橋の商人で号は「松屋」という。 裕福な大店の主人で将棋を趣味とし、しばしば大橋宗英を招いて稽古をつけてもらっていた。 文化13年(1816)、旅人に道中の安全を提供するため「浪花組」という旅篭組合を立ち上げた大阪の松屋源助という人がいるが、 あるいは子孫であろうか?
四段。江戸の人。
九代宗桂の門人。伝では「性質篤実にして謙虚の人」、 あるいは「賭け将棋ばかり指して大金をせしめた」など正反対の評が残っている。ともあれ裕福な町人であったことは間違いないようだ。 詰将棋作家としての方が遥かに高名。家元が撤退した幕末の詰将棋界では一際輝く存在と言えよう。 反面将棋ははっきり言って「雑」な印象。多分、普段格下の町人仲間とばかり指していて無理攻め等が容易に決まるため、 指し手が荒れてしまったのだろう。
七段。江戸の人。後青季。
蔵前の札差商人伊勢屋の隠居と伝う。七段が允許されているので、大橋本家にとっては相当良い稽古先だったと思われる。 これより数十年前の田沼時代の豪商で、相撲の谷風梶之助のタニマチでもあった「伊勢屋四郎左衛門」という人がいて、 この四郎右衛門との関係が興味あるところ。もっとも蔵前に伊勢屋は沢山あったそうではあるが。
六段。尾張名古屋の人。前名清三郎、後桂翁。
九〜十一代宗桂の頃、大橋本家門下の重鎮として活躍した強豪。多数の入門者を大橋家へ紹介し、免状の斡旋などを行った。 実力は六段以上との評も残っている。
七段 武蔵の国所沢の人。
「所沢の藤吉も王手にゃ逃げる」という言葉が残り、また詰将棋集『将棋新撰図式』が「福泉藤吉撰」で出版されるなど、 この時代の代表的な民間棋客である。晩年伊藤家七代宗寿自身が、七段免状を藤吉の元に持参したと伝えられていることから、 家元との繋がりも深かったと推測される。
七段。江戸の人。
幼くして十一代大橋宗桂の門下となり抜群の才を発し「実力十三段」とも「棋聖」とも称えられる程の実力を示した。 宗歩の将棋は現代のプロ高段者と比較しても全く遜色の無いもので、特に捌きのセンスなどは現代感覚に溢れている。 その棋譜や著書が後世に与えた影響は計り知れず、「近代将棋の父」とされるのも当然と言えよう。
技術面では将棋界に多大なる貢献をした宗歩ではあるが、その素行は決して芳しいものではなかった。 酒、女、そして博打の飲む打つ買うである。 近年明きらかになった資料によって、宗歩の指図による賭け将棋詐欺の事実が判明している。 大筋を解説すれば、大店の将棋好きの旦那に自分の弟子を「田舎の金持ち」と偽って紹介し、 旦那の味方をするふりをして高弟の市川太郎松らをひそかに助言者として送り込むと言うもの。 自称田舎の金持ちの袖から後ろの長持ちに糸を通して、中に潜む太郎松がそれをひいて合図を送る手口で巻き上げた金がなんと千百両、 今日の億を越える大金である。この悪事は被害者の旦那が偶然糸に躓いたことによって露見し、番所に訴えられることとなった。
当然厳罰があたえられるべきところであるが、この騒動が宗歩のみならず監督責任を問われかねない師の宗桂や、 引いては家元の権威すら脅かしかねないことを恐れた将棋関係者の奔走と、 宗歩の伯父が目明しでその方面からの工作でどうにか内済となった。 おそらく巻き上げた金を各方面に賄賂として送り、揉み消しを図ったのではないだろうか?
このような件もあって宗歩と宗桂は不仲であったと伝わる。 独自に活動し太郎松他、渡瀬庄次郎などの弟子を育てた宗歩だが四十四歳と指し盛りで世を去った。
六段格、江戸の人?
棋聖天野宗歩の最高弟として有名な人物だが、その棋譜以外のことは実は殆ど伝わっていない。 名人以上と言われる宗歩との手合は香落ちで、実力は六段半から七段はあったと見られ当時屈指の強豪であった。 師とは将棋行脚を共にするほど親密で、宗歩も太郎松の才を多いに買っていたようだ。 しかしこの師弟があまり素行が宜しくなかったことは宗歩の欄に述べた通りである。